人生はいつでも1からやり直せるか

ご質問いただいた件。

いただいたご質問

金融の人は人生・キャリアは1からやり直せず培ってきたものの上にしか成り立たない派の人が多そうであるのに対し、ITの人は正しい努力を行えば人生・キャリアはいつからでも1からやり直せる派の人が多そうだという感じを受けます。ネルさんは人生・キャリアは1からやり直せない派に見えるのですがなぜそのような思想になっているのでしょうか。

職業上の差異

まずは、IT業界と金融業界における差を考えてみる。結論としては、少なくとも仕事においてはIT業界のほうが "1からやり直し" を行いやすいのではないかと思われる。

経歴

最も分かりやすい論点は経歴だろう。金融の仕事では経歴を聞かれることが多い。IBDの場合は提案資料に経歴を書くし、運用会社の場合も運用経験X年といった記載をする。従業員の経歴自体が商品であり、顧客からも優れた経歴の担当者を求められるため、実際に1からやり直すのは難しくなる。価値観や思想の問題ではなく、変な職歴をつけてしまうことに実害が生じるのである。

事例の有無にも差があるだろう。IT業界が成長をしたのはここ数十年の話であるから、IT企業のシニア層には、黎明期に他産業からIT産業にやってきた人たちがまだ残っていると思われる。一方で、金融業界は数百年前から続く古い産業であるため、今のシニア層は基本的に「金融一筋30年」というタイプである。しかも、後述する経験重視の観点から、金融一筋X年の人のほうが実力も上である可能性が高い。

経験重視/マインド重視

金融の仕事のほうが経験がものを言うという側面がある。プログラマなどは、経験年数と技術力が必ずしも比例せず、何なら若手のほうが最新技術に精通しているというケースすらあると聞く。1からやり直したとしても、比較的早期に追いつくことができ、能力さえあれば追い越すこともできるのだろう。

一方で、金融業界においては、知識が経験に勝つことはまずない。特にIBDで顕著である。どんなに天才的な頭脳を持っていようとも、FA未経験の状態ではお荷物にしかならない。一方で、ごく平凡なサラリーマンであっても、M&A案件を5件ほど経験していれば十分に手を動かすことができる。マーケットサイドのことには詳しくないが、「リーマンショックを知らない世代がシニアになり始めた」といった表現が使われることがあるため、やはり経験が重視されているのだと思う。

経験がものを言う主な理由は、2つあると思われる。1つは理論と実務に差がある点である。金融の仕事においては、理論を経験で裏付けるという進め方が多い。仕事で使う理論のレベルはそれほど高くないので、若手からシニアまで、基本的には同じ理論を知っている。したがって、理論を仕事に反映するときは、「理論上はこうだが、理論どおりにやってうまくいった事例はあるのか?」といった考え方になることが多い。こうなってしまうと、経験の乏しい若手が貢献するのは難しい。

もう1つはマインドの問題である。某社のインサイダー取引の文脈で多くの人が言及しているが、「若いうちに叩き込まれないと身につかない意識」のようなものが存在する。法令順守意識や、ミスをしないことに対するこだわり、問題を起こしたら0.1秒で謝罪する瞬発力などは、シニアになってからではなかなか身につかない。

これらを総合すると、IT業界では、相対的に知識やスキルが重視される傾向があり、金融業界では、相対的に経験やマインドが重視される傾向がある。知識やスキルは、努力さえすれば短期間で身に着けられる一方で、経験やマインドを養うのには、時機や時間が必要である。そのため、IT業界と金融業界では "1からやり直し" に対する難易度に大きな差がある。

人材ビジネス

前述のような背景があるため、IT産業のほうが、相対的に "やり直し" をしやすいのは事実であろう。しかし、それを助長しているのは人材業界だと思われる。

IT産業は裾野が広く、「プログラミング初心者のおじさん」でもどこかには就職できる可能性が高い。そのため、人材エージェントやプログラミングスクールが乱立し、いつでも1からやり直せるというポジショントークを繰り広げている。

一方で、金融業界の場合、未経験のおじさんはどうせ採用されないので、人材業の人たちもポジショントークがしづらい。求人者側から「必須条件:最低3年の実務経験」などと言われてしまうと、未経験者を唆して送客するインセンティブが生まれないのである。

人生におけるやり直し

以上のように、少なくとも仕事においては、IT業界のほうがやり直しを行いやすく、金融業界ではほとんどやり直しをできない。

人生全般に対する価値観において、IT系の人のほうが "やり直し" に肯定的なのは、おそらく仕事からの類推であると思われる。もっとも、仕事は人生においてある程度のウェイトを占める分野であるから、仕事から類推するのは割と自然な発想だと思う。

個人的な見解

個人的には、人生においても、1からのやり直しは難しいと考えている。

そもそも、人生が順調に進んでいれば、やり直す必要はないのである。やり直し(しかも、1からのやり直し)をせざるを得ない場面では、すでに人生において重大な問題が生じている可能性が高い。やり直しの原因となった問題を解決しなければ、1からやり直したところで、またやり直すことになるだろう。

時間軸の問題もある。1からやり直すということは、それまでに投下した労力の大部分が無駄になるということである。あなたが「やり直し」をしている間に、やり直しをする必要のなかった人たちは、さらに前に進んでいる。差が開く一方になる中で、自分を鼓舞して1からやり直せるかというと、なかなか難しいのではないだろうか。

最後に、「やり直し」の美化について書く。何歳からでも1からやり直せるという主張を支持している人たちの中には、「やり直し」を美化している人たちが多いと感じる。いい歳して1からのやり直しが必要になってしまうような、問題だらけの人生を送っている人が、自らの人生の問題を発見し、解決し、自らを鼓舞して巻き返すなんてことは、到底できないと思う。

実際に1からやり直せるような人がいるとしたら、他人からどれだけ反対されても、どんなに後れを取っても、歯を食いしばって死に物狂いで挑戦できるような人だろう。残念ながら、巷にあふれる「何歳からでもやり直せる」派の人たちからは、そのような気概は感じない。

以上を踏まえて、1からのやり直しなんてものは、基本的には不可能だと思っている。大幅な手戻りが発生しないように注意しながら、少しずつ人生を積み重ねていく必要があるだろう。