【書評】教育格差(松岡亮二)

あえてここには書かないが、教育格差について勉強するきっかけを頂いたので。

総括

本書は、教育格差というものが非常に複雑なものだと述べたうえで、実際にどのような格差が存在するのかを解説した書籍である。両親の学歴の格差、蔵書数の格差、テレビ視聴時間の格差、水泳やピアノを習っている割合の格差、etc. といったデータ集に近い。「この国の実態」を書いた本らしいが、まさにそのとおりである。ほとんど実態しか書かれていないとも言える。

解決策として方向性が書かれているのは、せいぜい「施策を考えるためにもっとデータを収集しましょう」だとか「教職課程で教育格差について教えましょう」といったものであり、およそ解決策とは言いづらい。私が期待していたのは、格差に対する予防策や緩和策だったため、やや期待外れになってしまった。

もっとも、著者が書いているように、格差というのはそう単純なものではないのだろうから、新書1冊の紙面では具体的な施策までは議論できなかったのだと理解している。格差の現状について確認したい人にとっては、良い資料集になるだろう。

私の主張|要するに、努力量の差ではないのか?

私自身は、一貫して「環境の格差はあるが、努力で挽回できる」と主張している。より正確に言えば、環境の差によって、努力する習慣や努力すべきという価値観に差がつくのであって、努力の効果自体に差がつくわけではないと考えている。いくつかの例を挙げよう。

正しいと思うもの

  • 学歴や職歴が低いのは、本人の努力不足である
  • 努力不足に陥った理由の1つは、環境が悪かったからだ
  • 環境が良ければ、もっと頑張れたかもしれない
  • 環境の差によって、努力の効率が1割増しになるかもしれない*1

間違っていると思うもの

  • 環境が悪ければ、努力しても良い大学には入れない
  • 環境さえよければ、学歴や職歴がよくなったはずだ
  • 私の学歴が低いのは、努力不足のせいではない
  • 環境の差によって、努力の効率が2倍になるかもしれない

また、努力というものは複利であり、努力をした瞬間に成果が出るものではなく、長い時間をかけて積み重って差がつくものだと考えている。

このような私の考えは、本書の内容とおおむね一致していた。一方で、著者は一貫して「教育格差は非常に複雑なものである」というスタンスをとっており、私のように「要するに、努力の差では?」という単純化した考えとは立場が異なる。

本書の主張|格差というのは複雑なものである

本書は、親の学歴が高いほど子の学歴が高くなる、といった周知の事実のみで終わってはいない。両親の学歴や育った地域によって、勉強時間や蔵書数、親が子の勉強を気に掛ける頻度などに総じて差がつくということを説明している。

例えば、両親が大卒の場合と両親とも非大卒である場合で、子の学習時間は小学校で29%、中学校で36%ほど差がつく。また、このような差による影響は、蓄積されてどんどん広がっていく。

学習量の差について書かれた部分を引用しよう。

学校という平等化装置は格差をゼロにするほどの力はない。何しろ高SES*2な家庭で育ち学習経験を蓄積する子たちが立ち止まるわけではない。同じ速度で走ったところですでに存在する距離は変わらないし、追いつくためにはより速く走らなければならない。学期中であっても高SES家庭の児童は私立学校や塾で効率的な走り方を教わり練習を繰り返すわけで、そうではない子からすれば先頭集団の背中はゆっくりと遠くなり、やがて視界から消えることになる。(松岡亮二「教育格差」, 2019.)

少なくともこの部分については、私の考えのとおりである。繰り返しだが、著者は問題をそれほど単純化しておらず、あくまで環境によって生じる差の例の1つとして書いているという点では異なる。

このほかにも、幼少期に子供に話しかける語数の差、親が子の教育に関心を持っているかどうか、親の知識レベルや蔵書数といった文化的資本の差などが、子の学力に影響を与える可能性があるとしている。

本書の主張|奨学金などは効果が薄いのではないか?

インターネット論客各位にとっては意外かもしれないが、著者は、所得の格差をそれほど重要視していないようである。学習時間や蔵書数、価値観の差(大学に行くべきかどうか)などにフォーカスしている一方で、金銭的な格差についてはほとんど触れられていない。大学の無償化についてもやや批判的であり、財政出動では格差を解決できないと見込んでいるように思える。

現状把握に徹しないと、その対策は的外れなものとなる。(中略)低所得世帯層に対する大学の授業料無償化案がわかりやすい事例だ。「経済資本の多寡のみで進学格差が生じている」という仮定が適切であれば、政策の意図通りになるかもしれない。しかし、中学1年生時点で経験蓄積格差があり、それが大学進学期待と関連している(中略)様々な経験の上で大学に進学する自分の姿を現実的に想像できない生徒が、奨学金によって突如意欲を持ち出すのだろうか。(松岡亮二「教育格差」, 2019.)

なお、補助金などについては、税金で支援したのだからお金のせいにするな、という風潮が生まれるなどの「副作用」のほうが問題だと考えているようだ。

本書の主張|他国並みの格差がついてしまう一因は受験制度にある

日本は、中学生くらいまでは環境による差が相対的に小さい国であり、高校で一気に国際標準並みの学校間格差が生じる。それでも、OECD平均や米国よりは格差が小さいのだそうだ。

この際、著者は、日本の高校受験が学力のみの選抜である点を指摘し、それ故に同じ学力レベルの集団に分断され、格差がより一層深まると考えているようである。どちらかというと、AO入試のような学力以外による選抜には肯定的な立場である。また、中高などにおける習熟度別教育は、子供の学習意欲や「ふつう」に関する意識*3に差をつけるため好ましくないと考えているようだ。

私の主張|やはり努力は重要であり、努力の必要性を教えることも重要

述べてきた通り、本書は「教育格差は複雑なものである」というスタンスをとっており、何が原因かの結論は出していない。格差に対する提案についても、「もっと現状を把握すべき」というものであって、どうやら結論を出すには材料不足だと考えているらしい。

学者なら今後研究するという結論でよいと思うが、ビジネスパーソンは限られた情報しかなくても意思決定をしないといけない。私はビジネスパーソンであるから、一応の結論を出したいと思う。

まず、低学歴の人が努力不足であるというのは事実だと思われる。一方で、「努力しろ」といえば済む問題ではない。なぜ勉強する必要があるのか、そもそも勉強するのは良いことなのか、といった背景の説明が必要だし、もっと言えば「あなたの生きている環境では、楽をして遊んでいるのが『ふつう』かもしれないが、別の環境では苦労してでも勉強をするのが『ふつう』である」というような現実を突きつける必要もあるのだろう。

これを教えるためには、子供へのサポートだけでは不十分であり、親に対するサポートも必要だと思われる。歴史的な背景から多少難しいのかもしれないが、学校にて価値観に関する教育をするのも一案なのではないかと思う。

補足|教育格差が幸福の格差につながるとは限らない

本書は教育格差についての本であるから、幸福については触れられていなかった。しかし、私個人が興味関心を持っているのは、もっぱら幸福度の差である。教育格差があるのは分かった。どんな差があるのかも把握した。で、それは幸福度の差につながっているのか?というところが気になるのだ。

例えば、本書では、偏差値の低い学校の特徴の1つとして「放課後に友達と遊んでいる人が多い」というものが登場する。偏差値の高い学校では、その時間で塾に行っている人が多いというのである。果たして、これは悪いことなのだろうか。

私自身は、学歴や職歴の最大化よりも、個人の幸福度の最大化のほうがよほど正しい生き方だと思っている。

*1:コメントを頂いたので追記。環境などの差によって、努力の効率に多少の差が生じる可能性はある。ただし、それはどんなに大きく見積もっても2-3割程度の差でしかなく、何倍も効率が良くなったりはしない。環境はそんな魔法のようなものではない。

*2:SESは社会的階層のこと

*3:習熟度別の下側の子供たちが、勉強しないことを「ふつう」だと感じてしまうなど